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頭の中の整理とストック用

心のゆとりと部活動

なんか最近、積極的にいろんな人と会うようにしているんですけど、そんな中でも「なんで、あの人には余裕がないんだろう(心の余裕)」と思ったので書きます。

 

結論から言うと、「自信がないから」になるんですけど、部下から失敗の報告を受けて、部下に対応を押し付けてしまうとか、管理職なんだけど部下から相談がないとか。その人が忙しい時とか、強いプレッシャーにさらされている時は、他者に対して冷たくしてしまうとか。やたら、スケジュールを詰め込んで忙しくしていたりとか。いい会社に就職しなきゃとか。まぁまぁいろんな形の余裕のない事例があるんですけど、なんでなんだろうなと思ったんですよね。

 

んで、割と心に余裕のない状態の事が多い人の特徴とか、その人と話した時の事を思い起こしてみると、大概の場合、自分に自信がなかったり、コンプレックスを抱えていたりする人が多いなぁと思ったんです。そりゃ誰でも、自信があるわけでもないし、コンプレックスがないわけでもないんですけど、「まぁこんなもんでいっか」と自分自信に対して承諾できていない人は心に余裕がなくて、他者に対して冷たかったり、攻撃的になってしまっているんではないかなーと。

 

たとえば、南国の人は北国の人に比べて、楽観的で心にゆとりがある人が多いイメージがありますけど、「こんなもんでいっか」という雰囲気を感じること多いじゃないですか。(僕は勝手にそう思ってるんですけど)あ、自信と心のゆとりの相関関係を書こうとしているのに、かなり脱線しそうなので、この段落はここでやめます。

 

まぁその、アラサーになるにあたり、自分の人生とか、幸せとは何かとかを考える機会が多かったり、まわりも考え始めたりするんですけど、けっこうここで二手に分かれ始めていて、「もう、このままの既定路線の延長線上で生きていければいいや」というAさんと、「いや、まだやり残していることがある。どうしよう」みたいなBさんでまわりも分かれ始めています。

 

ある種、Aさんは現状に満足していて、Bさんは満足していない。満足できている人は、自分に自信があるとまではいかなくても、自分に対して肯定的で、後者は否定的。

 

たぶん、自分はこのままでいいんだとか、ありのままの自分を受け入れることができないんだなと思います。(良いか悪いかの議論は置いておいて)なんで、受け入れられないかというと、まわりの人と比較をしていたり、自分の中で納得のいく人生を歩めていないからであって、言い換えると自分の人生に自信がない。自分の能力やキャパに自信がないからなんだろうなと思います。

 

自分の能力やキャパに自信があれば、どんなことを言われても、冷静に対応できるし。自分の人生に自信があれば、まわりにどんな人がいようと、何くわぬ顔で日々の生活を過ごしていけるし。

 

そんなことを考えていた中で、中学・高校でおこなう部活動って、そんな不満やモヤモヤを救うクッションの役割もあるんだなーと思ったんです。

 

僕は高校で野球3年間頑張った。中学生の頃は吹奏楽やっていました、とか。別に今の仕事はまあまあだけど、小さい頃とか学生の頃に頑張っていた時間が糧となって、お酒の肴にもなって、その人の自己肯定感を支えていることってあるじゃないですか。むしろ、学生時代の部活動がその人のアイデンティティだったりする人も多いじゃないですか。

 

学生時代に何かに打ち込んだという事実というか自信によって、その人のその後の人生の他のことは諦めがつくというか。その分、余分な煩悩や野心なんかに振り回されず、自分とまわりの人の幸せを願いながら過ごせるなーと。

 

意地悪な言い方をすると、学生時代に頑張ったゆえに、その後はあんまり頑張らなくてもいいやという人ばかりだと、よくない部分もあるかもですけど。

 

そんなことを考えると、中学生の頃の坂道ダッシュは、10年後、20年後、30年後の心のゆとりをつくるためのトレーニングなのかもしれませんね。

 

そして、もしも中学高校時代とかに部活動がなかったら、「僕は、私は、○○を頑張ったから、あとの人生は気楽でいいや」と思える機会が減って、なんというか卑屈な人や野心に溢れる人が増えるのかな。

 

部活動には、そんな役割もあったのか、と思った話でした。